11

21

コメント

自分の謎

ここ最近、自分の謎が解けた感じがするので、
覚書として残しておこうと思う。

私は小さいころ、
母に気持ちを受け取ってもらうこともなく、
「分かってもらえない」と思い続けていた。
しかし、母にそう訴えることもなく、
腹の中に不満として持ち続け、
一方で「そんなこと思っちゃいけない」と
その不満さえも打ち消してしまい、
そのまま大人になっていった。

自分では、母に対して
好きとも嫌いとも感じないようにしていたけれど
「分かってもらえない」という
小さいころからの不満は消えることはなく、
やがて、それが大人になるにつれ、
世の中のすべてに対して、何に対しても、
「分かってもらえない」「どうせ、何をしても同じ」
というような信念ともいうべき怒りが
自分の生きるテーマみたいになっていった。

しかし、それさえも無意識の世界なのだが。

なぜ、その無意識に気づくようになったのかといえば、
私には「楽しむ」ことが非常に難しいということだった。

イベントが終わると楽しかった感覚が消えてしまう。
その前に、そもそも「楽しみたい」という気持ちが人より薄い。

その辺をセッションでよく突っ込まれ、
どうして自分がそうなのか、これでも私はずっと悩んできたのだ。

頑張って頑張って、事前にテンションを思いっきり
引っ張り上げないと楽しめない。
楽しむためには膨大なエネルギーが必要な感覚。
楽しまない方がラク。

これは一体どういう仕組みなんだろう。

そこで気づいたのが、無意識の「どうせ」という感覚だった。
この感覚が長年私の中に横たわっていて、
それが、何もかも「無」に引き戻す強力な磁石のような
役目をしているのではないかと、思い当った。
だから、楽しもうとすると、その磁石に反発するだけの
大きなエネルギーが必要だったのだ。

要するに、自分(の無意識)が、楽しまないようにしていた
ということが、スーッと腑に落ちた。

人から何度そう言われても、
自分自身でこの無意識にたどりつかなければ、
決して受け入れられないものだと、つくづく思う。

そして、自分の中に母親に口をとがらせて怒っている
幼児の私が棲みついていたことに、
ちょっとした気恥ずかしさも感じている。

関連記事

11

03

コメント

人生の大前提として

昨日セッションで出てきた言葉「絶望」
過去を嘆いて未来もあきらめている言葉。

何年も前から「なんで泣いているの?」と聞かれて
ずっと答えられなかったけれど、
この先も変わらないであろうという絶望感が
人生の大前提にあったと考えたらスッと腑に落ちた。

「どうせ」という気持ちが前提にある以上、
いくら表層で、
何を言っても、何をしても、何をしてもらっても、
楽しんでも、喜んでも、悲しんでも
簡単に忘れてしまえる。

「どうせ」を変えなければ
いつまでたっても同じことの繰り返し。

「どうせ」はこの先に絶望している言葉
母に意地を張っている言葉
母にわからせたい言葉
母にわかってもらいたい言葉


関連記事

10

23

コメント

受け入れられなかった言葉

先日のセッションで、元ダンの浮気が
私がそうするように「仕向けた」のだと言われ、
その言葉がなかなか受け入れられませんでした。

私は旦那の浮気によって、ひとりで苦しんでいたし、
そのことよって、帰りたくない実家に
敗北感いっぱいで帰らなければならなくなりました。

元ダンの浮気は、母にしてみれば
娘を取り戻す格好のチャンスとなったわけで、
私にとって、そう「仕向ける」メリットが
まったく思い浮かばなかったのです。

私は母を恨んでいないとよく言われますが、
それでも一番恨んでいることは、
結婚や就職を反対されたことです。

でも本当はその前から、自覚はしていなかったけれど
自分の中の生きづらさは既にあって、母に対し、
遠まわしに仕返しをしようとしていたのかもしれません。

つまり、母の反対しそうな夫を選び(これは自覚あり)、
反対を押し切って結婚し、
旦那が浮気をするように仕向けて、不幸な自分を作り出し、
それによって、「あなたの育て方の結果、私は不幸になった」と
母に知らしめたかったのかもしれません。

これが目的ならば、私自身の人生を棒に振ってまで
母に仕返しをしていたということになり、
元ダンの人生も、息子の人生も、
私自身の恨みのために、利用したことになります。

元ダンは大人なので自分から逃げて幸せになる力があったけれど、
私の子どもに生まれた息子にその力はありません。
これが、元ダンと息子に対する、私が行った罪悪ではないかと思います。






関連記事

10

14

コメント

本能

セッションでいつも話題になる
「本能で感じてない」ということ。

心底楽しんでるのか。本当に美味しいのか。
あらためてそう聞かれると、楽しい・美味しいが分からない。

私の身体全体が、膜でおおわれている感じがする。
喜怒哀楽・五官・欲求・・・すべてにモヤがかかっている。
人との関わりも、事実の記憶としてはあるけれど、
その時の感情は出てこない。
その記憶でさえ、無理やり引き出さないと出てこない。

このことで、多くの人を不快にさせたり怖がらせたりしてきた。
私はその自覚がないので、突然怒りを向けられた感覚になり、
その人に怯えてしまう。
怖いから、自分を守るために人を避ける。
怖いから、本能を覆う膜をつくってしまう。

早くこのループから抜け出したい。

そのために、この膜(モヤ)を取り去って、
まずは本能で感じられるように、と考えるのは順番が違う気がする。
私の場合、怯えを取り去ることが先だと思う。

というのも、私は人に対してまず、
1.怯えて(先読みも含めて)
  ↓
2.「いやいや、そんなこと思っちゃいけない」と打ち消し
  ↓
3.1の怯えを感じないように封印する
という心の流れが必ずあるからだ。

封印したからといって、怯えそのものが無くなるわけではない。
怯えはちゃんとそこにある。
それが意識の表面に出てこないように、
膜で固く固く覆い尽くしているだけだ。

あらゆる人に対して、程度の差こそあれ
1→2→3 の心の動きをしている。

この1→2→3 こそが無駄であり、
人に滑稽だと映る部分なのだと思う。

その怯えを無くすことが、
人に心を開くということにつながる気がする。

人を信じられるようになれば、
私の本能は本能のままに、自己主張しはじめるだろう。

関連記事

09

24

コメント

変わりたくない私

私はどこかでゲームをバカにしていたんだと思う。
そして、ゲームをする息子を、
本当の意味で受け入れていないのかもしれない。

息子とコミュニケーションをとるためという大義名分がないと
ゲームができなかった。
ゲームを楽しいと思う自分が許せなかった。
楽しんでいる姿を人に見られたくなかった。

息子とのつながり、人とのつながりよりも、
親とのつながりを優先しているのか?

私は、ゲームをやらない姿をいったい誰に見せようとしているのか・・・。

関連記事

プロフィール

けい

Author : けい


大学生の息子と暮らしています。
あなここでACの回復を目指しています。

カウンター

ブロとも申請フォーム

Designed by

Ad